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『人間失格』 ~ 理想と、不完全な自分との距離感に耐えきれなくなったとき ~

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『人間失格』 ~理想と、不完全な自分との距離感に耐えきれなくなったとき~ ヘッダー header bookreview ブックレビュー


他人がいとも簡単にできていることが、なぜ自分にはこんなにも難しいのか。
わざと作られた自分に騙される人間を見て、辟易しつつも安堵する毎日。
飾り立てられた自分に周りの人間はとっくに気づいていて、いつか暴かれるのではと拭えない不安。

人と人との “物理的距離感” と “精神的距離感” とが比例しない、矛盾する昨今、人間として生きているのって結構息苦しい。

「自己顕示欲戦争時代」
「SNSを制せぬ者はもはや負け組」
「パーソナルスペースは柔軟に」

こんな風潮になって久しく、他人とうまく折り合いをつけ上手に綺麗に泳いでいけない者は置いていかれてしまう難しい時代に、何者かによって意図的にさせられてしまいました。一度その波に乗ってしまえたら泳ぐことをやめるわけにはいかないので、腕も脚も動かし続けなくてはいけない。
“できない” と思い込む者は、”できる” と思い込む者から搾取の対象にされ、さらにその精神の格差は広がる一方……のように見える。
そんなものは9割型が錯覚なのに。

こういった人間ならではの窮屈さを感じたことがあるならば、もっとその生キヅライ沼ってやつにとことんはまってみてもいいんじゃないでしょうか。自分を俯瞰視する著書には、この『人間失格』が最適な気がします。
時には、どっぷり浸ってどうにも抜け出せないでいる自分を、高いところから他人事のようにぼんやりと見つめてみる時間も必要だったりします。それは、どんな救いの言葉も不要なほどに価値ある行為になる。

 
  1. 1. 『人間失格』の概要とその舞台
  2. 2. 完全なクズまであと一歩なのに… 心根優しい純朴な男の話を紐解く
  3. 3. 『人間失格』のデザインについて。装幀とイラストレーションの話
  4. 4. おわりに。
 

『人間失格』の概要とその舞台

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日本人なら誰もがその名を知る中編小説『人間失格』
大正~昭和初期の近代文学の文豪、太宰治による代表作のひとつであり、主人公:大庭葉蔵のモデルは太宰自身であるとされているのはあまりにも有名な話。この作品は太宰の自伝的小説なのでは、または遺書なのではという説があるのには、彼の生い立ちや生き様と酷似する部分が多く、また、書き上げた直後に若くして愛人と心中している事実からそう云われています。享年38歳。
そういったエピソードも含め、彼の最期にして最高にセンセーショナルな作品です。本作を読むことで、太宰治という人間の人となりや生き様、心理、内に秘めたる葛藤を垣間見ることができるはず。

物語の大まかな構成は本書の目次通り。
はしがきあとがきに挟まれた『第一の手記』、『第二の手記』、『第三の手記(二部構成)』はそれぞれが、幼少期、学生期、そして青年期から精神病院へ送られるに至るまでを、まるで病室の床の上でポツリぽつりと回想しているかのように時系列に沿って書き綴られています。
それらの手記を、いわゆる現代(*第三の手記からおおよそ15~6年後の世界)に生きる作家の “私” が浅草の喫茶店を訪れた際に目にし、そこのマダムから、それの執筆者である葉蔵の人となりを聞かされたところで物語は幕を閉じます。

物語の舞台は東北と東京。
幼少期から中等部までを東北の地で過ごし(明確な地名の記載はなかったはず)、その後は上京して、上野や本郷付近などを拠点としやがて酒と煙草と女と薬に溺れてゆきながら暮らします。
太宰の生きた時代を鑑みると、物語の時代背景としては戦後の世界で日本がバタバタしているさなかのお話ですね。華族制度廃止を余儀なくされ、いわゆる貴族の権威失墜があちこちで見られていた頃です。『人間失格』ではそういった生々しい背景は描かれていませんが、上記で「人間失格の主人公は太宰自身がモデルとされる」と書いたように彼自身が裕福な家の出なので、お金や食べるものに困らなかった少年時代から、実家を離れて支援もやがて受けられなくなり金欠に喘ぐ様子が、現実のそれとリンクしているなぁと感じました。

戦後の華族制度廃止の背景をまざまざと感じられる著書には『斜陽』です。ここに出てくる直治という登場人物もまた、太宰自身を投影したような人物像になっています。

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完全なクズまであと一歩なのに… 心根優しい純朴な男の話を紐解く

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「吹っ切れてしまえれば楽なんだろうに」

そう思ったことが私自身人生において多々あるし、またこの物語の主人公である大庭葉蔵に対してもそれは感じました。
コミュニティの中にうまく溶け込めなかったり、「私、社会不適合者だからさ~」などとおどけて見せる人たちというのは、自分と他者との距離感、自分の立ち位置や役割を頭で考えすぎてるんじゃないだろうか、と思えてなりません。

自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。

『人間失格』太宰治 第一の書記から

他人の幸福と不幸の尺度に検討がつかず、自分よりも酷く不憫な目にあっているかもしれないのにそんなにも何食わぬ顔で表を歩いていることが恐ろしくてたまらず、挙句の果てにそんな隣人たち(家族でさえも)とどう接したらいいのかがわからなくなってしまった。そんな彼らと人間として上手に関わっていくために葉蔵は、「道化を演じる」という術を身に着けて「何でもいいから笑わせておけばいい。人が見たいものを見せてあげていればいい」と、決して本音を見せることのないおどけた変人に徹して過ごします。

いつも目の前にいる人の内面を見ることができないってことや、他人のプライベートが垣間見れないことなんて当たり前のことなんですけどね。
でも彼は、「自分はこうだ。でも、相手がそれを同じだとは限らないし、その程度とはいかほどなものか」と、頭で考えすぎなくらい考えてしまうのでしょう。

 

“本当の到着予定時刻より、少しだけ早めに伝える人”

想像してみてください。

あなたは人との待ち合わせ場所に向かっています。でも、寝坊して19:00の待ち合わせ時間より30分は遅れてしまうことが確定しています。ここで相手に遅れる旨連絡を入れます。さて、あなたは下記のうちどれに近いですか?

A. 「ごめん、寝坊してそっち着くの19:30過ぎそうです」
B. 「ごめん、寝坊してそっち着くの15分くらい遅れそう」
C. いやもうめんどくさい。心許ないしドタキャンしよう

Aは真っ当な正直者。
Cはもうほぼ完全なクズ。

そしてBは葉蔵です。

ただ、わずかでも、つかのまでも、ヒラメに安心させて置きたくて、(その間に自分が、少しでも遠くへ逃げのびていたいという探偵小説的な策略から、そんな置手紙を書いた、というよりは、いや、そんな気持も幽かにあったに違いないのですが、それよりも、やはり自分は、いきなりヒラメにショックを与え、彼を混乱当惑させてしまうのが、おそろしかったばかりに、とでも言ったほうが、いくらか正確かも知れません。どうせ、ばれるにきまっているのに、そのとおりに言うのが、おそろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の哀しい性癖の一つで、それは世間の人が「噓つき」と呼んで卑しめている性格に似ていながら、しかし、自分は自分に利益をもたらそうとしてその飾りつけを行った事はほとんど無く、ただ雰囲気の興覚めた一変が、窒息するくらいにおそろしくて、後で自分に不利益になるという事がわかっていても、れいの自分の「必死の奉仕」、それはたといゆがめられ微弱で、馬鹿らしいものであろうと、その奉仕の気持から、つい一言の飾りつけをしてしまうという場合が多かったような気もするのですが、

『人間失格』太宰治 第三の書記 第一部から

つまり、先のクイズの解釈に戻ると、実際に想定している到着時間よりも “早めに・短く” 伝えてしまう歪んだ相手への思いやりと結局は自己保身です。相手が安心する部分と、自分がわずかなばかりの悪者で済ませられる塩梅を無意識に探った結果こうなるんですよね。
大なり小なりの悲劇を、延命治療するだけに過ぎない無意味な忖度です。

 

現代人にもありがちな “二度見知り” という性質

“二度見知り” という言葉を聞いたことはありませんか?
初対面では難なく他人と接することができるのに、それが2度目3度目… となるとだんだん相手との距離が近づいてきたようで実は全くそうでもないような、微妙な関係を築いていかなければならず、ひとつ言動を間違うとえらいことになりかねないのでは… といった息苦しい感覚。それから、これ以上踏み込まれると初回必死で固めてきたものが崩れるからもう近寄ってこないで! という感覚。そして結局自ら疎遠にしちゃうんですよね。
わかりますか? これ結構辛くないですか。
この現象を葉蔵が言語化してくれています。

「そう? お父ちゃんはとてもいいひとだって、みんな言うけどな」
それは、だましているからだ、このアパートの人たち皆に、自分が好意を示されているのは、自分も知っている、しかし、自分は、どれほど皆を恐怖しているか、恐怖すればするほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほど恐怖し、皆から離れて行かねばならぬ、この不幸な病癖を、シゲ子に説明して聞かせるのは、至難の事でした。

『人間失格』太宰治 第三の書記 第一部から

でも、この苦しみから少しだけ解放される救いの言葉が何ページか後に続きます。

大義名分らしいものを称えていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。

『人間失格』太宰治 第三の書記 第一部から

結局、他の個人個人の考え方を世間の目(=大きな声)だと錯覚しているからこんな「世間から見た自分像を確たるものにせねば!」となるのであって、実は他の個人は、他ならぬその人自身なんですよね。世間全般じゃない。だから、そこまで怖がることも怯えることもないってこと。
そのことが、物語の終盤に近づくにつれて葉蔵もわかってきたんですね。少々我儘にもなってくれば、図々しく振る舞うことさえできるようになってきたんです。
自分が考えすぎているほど、人間や世間は難解なものではない、と気付けたんですね。

 

自分に欠如している性質を他人に求めるということ

私自身も似たところがあり、全編を通して読んでいて「うっ…」と胸を突かれる思いをする箇所が多々ありましたが、「私には到底たどり着けないだろうな」と悟った葉蔵の感覚の描写がひとつありました。
それは、葉蔵の内縁の妻ヨシ子が、取引先の商人に犯された直後の葉蔵の心理描写。
葉蔵自身がそんな性質を持つ人間だからこそ、なんの淀みのなく見える純粋無垢な少女 “ヨシ子” を愛し、内縁の妻として迎え入れ(たのか転がり込んだのか)、穏やかに暮らしていたところに、いわゆる妻の不貞現場を目撃してしまったのですね。
普通、そんな裏切りを目にしたらパートナーやその相手方に対して憎悪が生まれ、大なり小なり攻撃する心理になるか、あるいは「自分の何がいけなかったのだろうか」と自身の存在をとことん悲観するか、に陥るのではないでしょうか。
ところが葉蔵は、

ヨシ子が汚されたという事よりも、ヨシ子の信頼が汚されたという事が、自分にとってそののち永く、生きておられないほどの苦悩の種になりました。自分のような、いやらしくおどおどして、ひとの顔いろばかり伺い、人を信じる能力が、ひび割れてしまっているものにとって、ヨシ子の無垢の信頼心は、それこそ青葉の滝のようにすがすがしく思われていたのです。それが一夜で、黄色い汚水に変ってしまいました。見よ、ヨシ子は、その夜から自分の一顰一笑にさえ気を遣うようになりました。

『人間失格』太宰治 第三の書記 第二部から

とあるように、妻の純粋さを犯されたことをまず第一に嘆きました。
人を疑うことを知らない、信頼が具現化したようなヨシ子という人間がしょうもない男に犯されたことによって、こんな自分と同族の人間に堕ちてしまったことに謂れもない悲しみが襲ってきた、といった描写が続きます。「相手の男に対して恋心があってくれてたほうがまだマシだ」とも。たった一夜の出来事がきっかけで、人の顔色を伺う “自分みたいな嫌な人間” になってしまったことを特に嘆かわしく思っています。
私が「到底たどり着けない」と上述したのは、やはりこういった部分ですね。
こういうときって、自分可愛さをまず第一に、どうにかして相手を悪者に、自分を被害者にポジショニングしたいじゃないですか。「そういえばこいつ元々クズだったわ、いつかやると思ってた」「誰が何と言おうと私が被害者だ、この私が」って。
ここまで誰かの純粋さを一心に信じて、その人の純粋さを汚されたこととそれを愛していた自分を憂うなんてこと、私には絶対にできない。ここに葉蔵の心の優しさと純朴さを再確認したと同時に、そんな彼を少し羨ましく思ったのでした。

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『人間失格』のデザインについて。装幀とイラストレーションの話

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では最後に、物語の内容から外れて少しデザイン面のお話を。

『人間失格』は、数多くの出版社から幾たびの重版、または編集・校訂を繰り返し刊行されております。本著は、1943年に著者が没したためすでに著作権が切れているのでどこからでも出版できますし、青空文庫にも掲載されているのでブラウザやアプリなどで無料で読むことができます。

さて、出版社が違えば、当然その装幀だって異なります。
Amazonや楽天、はたまた検索エンジンの画像検索で『人間失格』と入れて探してみると、ずらりと異なるイメージが出てきますね。

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様々な出版社から出ているので「どれを買えばいいの?」と疑問を抱える方もいると思いますが、内容はいくぶんに違わないので気に入った表紙のものをお買い求めいただければいいのかなと思います。

ちなみに、2007年夏、集英社さんが新装幀で再出版したことが出版社界隈やマーケ界、一部の漫画・アニメファンの間で話題になりました。そう、漫画『DEATH NOTE』の原画などでお馴染みの小畑健氏のイラストレーションです。初版から50年を経過した近代文学の文庫で、1ヶ月半で7万5千部を売り上げる怪物的な数字を叩き出したのは異例の事態である、というのは、ネットで検索しても様々な記事で触れられています。

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『人間失格』[集英社]

第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌していた。学生の姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生である。しかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗かせ、籐椅子に腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。

『人間失格』太宰治 はしがきから

上記の小畑さんのイラストは、直上の引用文の箇所を可視化したものでしょう。この第二葉の写真というのは、物語の内容で言うと『第二の手記』に相当しますね。

ただ完全なる私個人の好みですが、文学(もちろん現代小説もです)の装幀に、作品の人物像がモロに出るような(しかもそれが的外れなイメージだと最悪)アニメタッチや漫画っぽいイラストを充てられているのがあまり好きではないので、私なら自分の本棚へ仲間入りさせたくはありません。著作権切れで自由に購入する出版社を選べる状況であれば特に。
そこで私のイチオシは、このブログ記事のアイキャッチ/ヘッダー作成の折に模写もさせていただきましたが、やはり新潮社さんから出版されている文庫です。

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『人間失格』[新潮社]

このイラストレーションは、デザイン/イラスト制作会社ハッピー・バースディ・カンパニーの代表 唐仁原教久(とうじんばら・のりひさ)さんによるもの。
レトロチックで、力強い色合いながらもどこか侘しさや孤独を感じられる、人生を通して迷子だった大庭葉蔵の心情がよく現れているアウトプットですね。
近代文学という現代にとっては古い作品に、今を生きる私たちが受け入れやすい価値観を吹き込み、同時に当時の雰囲気をほのかに香らせるような素敵なイラストです。とっても気に入っております。

唐仁原さんはこの『人間失格』のみならず、新潮社文庫の太宰作品の装幀を多く手がけられているんです。もちろん、その他書籍の装幀デザインも多数!
ぜひぜひ、Worksのページをご覧になってみてください。

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おわりに。

新潮社さんの『人間失格』のページにある、短かな紹介文がちょっと素敵です。

「恥の多い生涯を送って来ました」。そんな身もふたもない告白から男の手記は始まる。男は自分を偽り、ひとを欺き、取り返しようのない過ちを犯し、「失格」の判定を自らにくだす。でも、男が不在になると、彼を懐かしんで、ある女性は語るのだ。「とても素直で、よく気がきいて(中略)神様みたいないい子でした」と。ひとがひととして、ひとと生きる意味を問う、太宰治、捨て身の問題作。

新潮社 『人間失格』のページより

多くの人間が長い人生の中、いつかは通過するであろう大庭葉蔵という性質を、怖がる必要も嘆く必要もない。あなたは他の人よりも少し周囲に敏感で、それでいて優しいだけだから。

それではまた次回まで。

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